屋号のまちYAIZU PRIDE

つくり手とこだわりの逸品

 

 

港町焼津にある八雲通りは、船元、仲買人、加工業者が軒を連ね、漁業の町として栄えてきました。

江戸時代、それぞれの業者は同じ苗字も多く、競りなどで呼び間違いも起こってしまうことから屋号をつけるようになりました。

屋号の形にはそれぞれの業者の個性が意味づけされていて各家で受け継がれるマークとして愛されてきました。

「屋号のまち」という呼び名は全国で3カ所あったと言われており、港町焼津は現代でも屋号プロジェクトなどを通して受け継がれています。

 

この屋号は、家のシンボルとして扱われるため、味や品質、対応力などの信頼の証でもあり焼津の漁業に関わる家のプライドでもあるのです。

 

ここでは、私たちの屋号をご紹介すると同時に、その家(現在では企業)が取り扱う商品をご案内いたします。

明治時代の焼津前浜
~ 陸揚げに沸くかつおの市 ~

明治末期の海岸は右図の様に石堤の前が二丁位磯があって、浜行も、ドンドン(おんべ焼)行事も大方この磯で行い、魚の陸揚げも此の処で、ハシケ利用でなされ、一寸時下模様の陸揚げは全く現代人の想像だにもせぬ、おそらく敵前上陸とはかくあるものかと思う位、大涛の合を見はかって八重巻『  』かけ声勇ましく引き上げ、礒へ揃えて此処で魚市が立ったという有様。

大正末期には海水が日に日にせって来て到底浜遊散や魚の売買等おもいもよらぬこととなった。時下の時は、石津寄りの青峰様西方寺、即ち南浜と北の浜(新屋)で市が立つ。

浜の河原をねじ肩で十八・九貫匁※1の重量をかつぎ上げたものだ。

担いだ重みで石が砂利へ、くろこぶし迄くすがる。之を抜きつゝ跳ね上げて堤防を山越えする。横町川岸は、河岸上橋がコンクリだからまだよいが、南は木の仮橋だからベタベタへたって、丁度吊橋渡りだ。

この河岸揚げは、弟子入りしたすぐで河岸揚げ小僧といった、当時力自慢に浜から家まで一気に担ぎ上げたものだ。

小僧等の労力もなみなみでなくこの仕事に耐えかねて、ひそかに里帰りする者が出て来たので、漸く荷車で上げることになった。

車で運ぶ事は、魚が身割れがするので嫌われたものだ。入港船は、朝が多かったのだが漁場の関係者等で、ビリダラ入港出帆の都合で、夜中でも市が立ったものだ。

一旦製造が終わって道具を一切洗ってしまっても、又、鈴を振って知らせに来ると、二度目、三度目の製造もする。一日中安心して、今の様に野球でも等とんでもないことであった。

当時は中宿に(ミツボシ)、南にい社(今の川京の処)、北に (今の北原鉄太郎氏の処)、右三魚会社があり、後日統一合併して〇三焼津水産会社となった。

吉井為策氏を社長に北支店長寺尾虎吉、南支店長松永松之助氏、その他主役に、長谷川安次郎、松村定吉※2 、松村弥兵市、井出辰吉氏の多士済々、発展にこれつとめた。

夢のように覚えているのは現在の石堤、以前は杭堤防で、上図のように土で盛り上げ防波堤だった。この堤の上に河原豌豆や河原舞子、ひるがをが這っていたほんの一部分を覚えている。

吾々はしらないが石津浜から磯馴松がこの堤防を延々長蛇して現に下田桜の中にはにはその一部が老松となって昔時を物語っている。

今の船玉大明神の川を隔てて浜側に舟月という旅館があり(旧魚市場売場)やはり河原舞子、昼がをで一面の緑地砂丘がありこの新屋海岸の広さは今人の想像にも及ばぬ広莫で引網で毎日漁り巷人の味覚をそそった。

※1 一貫=約3.75㎏

※2 松村定吉 ㈱いちまる創業家7代目

出典:佐藤道外、明治大正焼津街並往来絵図