<屋号について>
焼津の網元探検隊が、3代目の久野徳也さんにお話を伺いました!
式会社新丸正は、1935年(昭和10年)に、焼津市城之腰で始めた削り節屋が原点の鰹節製造会社です。独自の鰹節・出汁づくりにこだわり、ベーシックな商品から斬新な新商品まで、豊富なラインナップを揃えています。
【松村】
ご経歴を教えてください!
【久野】
現「東京海洋大学」の前身「東京水産大学」の、漁船の船長や航海士を育てるための「海洋生産学科」で学びました。必須科目 “遠泳” では、千葉の館山湾を7時間かけて縦断したり、毎年実習船で日本一周することで、3年生の夏休みまでに全国の主要港に行くことができ、漁業のことをみっちり勉強させてもらいました。卒論は「海旋(かいまき)船の漁具開発について」で、実際に旋網(まきあみ)船に乗ってサバ漁を経験、漁業調査船では大量のアジとサバを三枚おろしにする技を身に着けました(笑)。最初から食品の勉強だけしていたら、漁業や漁師のことを体で学ぶ機会はなかったから、今の土台を作ってもらったと思っています。卒業後も魚ではなく食肉・加工品の輸出入を行う商社に入社しました。自由な社風だったので色々な仕事に挑戦させてもらえたし、メーカーのように自社商品にこだわる必要がなかったので、広い視野で食品業界のことを勉強することができました。
【松村】
新丸正さんは、鰹節製造業では珍しく、原料から製品まで一貫生産していたり、個性的な商品を開発したり、独自色が強い会社ですが、それは創業当時から受け継がれてきたものなのでしょうか?
【久野】
うちは創業昭和10年で、業界では後発です。創業者は傷痍軍人で、片足を引き摺っていたので、営業もできなければ工場に入っても足手纏いで、だから、頭を使って考えるしかなかった。それが生き残る道だったので、変わったことをやる、隙間の商売を見つけることになったのだと思います。昭和41年に今の土地に引っ越して来た時も、何もない農地だったから井戸を掘り、浄化槽の整備から始めた。そういうことの積み重ねから独自路線を歩まざるを得ず、結果的に開拓者魂が受け継がれたのかもしれません。
【松村】
新丸正さんの鰹節「駿河ふぶき」を初めて食べた時、今まで食べてきたものとは全然違う、“口当たりのよさ”を感じました。
【久野】
昔は各家庭で鰹節を削っていたものですが、「鰹節パック」が業界で誕生して大ヒット!以降10年くらいの間に家で鰹節を削ることはなくなりました。それで、“手削りを機械でどうやって残すか?どうしたら花の形状や厚さを手削りの鰹節に近づけられるか?”が課題となり、祖父である創業者と初代の工場長が必死に考えていました。試作品を作っては毎晩持ち帰り、一緒に住んでいた僕らもよく食べさせられた(笑)。それで「駿河ふぶき」という他にはない商品が生まれて、今では全国にファンがいてくださるようになりました。この商品のお陰で、自分たちで小売商品を開発・製造・販売する土台ができ、一般消費者の皆様と繋がって販売できる路線ができました。
【松村】
今後の野望を教えてください!
【久野】
明治初期には鰹節製造産地としては後発だった焼津が、数十年で急成長してトップになり、日本の鰹節標準型を作り、伝道師として日本中に布教した。その後遠洋漁業にいち早く手をつけ、現代においても「8年連続水揚げ金額日本一」となる礎を築いた。そうやって果敢に挑戦してきた先人たちの気概を、僕たちも学ばなくてはいけません。
今、世界的には「Umamiブーム」が来ています。日本で「旨味」と言ったら「出汁」で、「出汁」の素と言えば、昆布や椎茸、それに鰹節です。日本固有の古来からの食材として、昆布や椎茸は英語でも「Kombu」とか「Shiitake」って呼ばれているのに、鰹節は英語で「dried Bonito」や「 Bonito flakes」と呼ばれている。なんで鰹節だけ日本語のローマ字表記じゃないのか?それは、今までの主な貿易が東南アジアからの輸入だったからです。これから焼津産鰹節を世界中に広げ、日本の呼称「KATSUOBUSHI」を世界の共通語にできたらと思っています。