焼津冷凍株式会社

私たちの創立は昭和41年10月、日本一の富士山に抱かれた駿河湾・焼津市小川港にて、創業当初は網元(快収丸)としてスタートしました。
現在は鯖・穴子・鰻の加工販売を行っており、産地・素材・製法・味にこだわりぬき、安心・安全・美味しさの感動をお届けしています。
屋号について>
会社創立当時、株式会社柳屋本店様(焼津市)に多大なるご尽力を頂きました。
その際、株式会社柳屋本店様の【ふじまる八】より【ふじ】の字を暖簾分けの意味も込めていただきました。
そこに創業者の【大】、創業メンバーの【一】を加え、先代の思い・技術を継承していく屋号(ふじだいいち)としました。

焼津の網元探検隊が、3代目である原崎太輔さんにお話を伺いました!

会社設立は昭和4110月です。曾祖父が昭和初期より富士山に抱かれた駿河湾・焼津市小川港で網元(快収丸)として創業しました。現在は、産地・素材・製法・味にこだわり、鯖・穴子・鰻の加工販売を行っています。美味しさはもちろん、なにより安心・安全を第一に製品づくりを営んでおります。 

【原田】

ご経歴を教えてください!

 

【原崎】

大学時代はゲーム会社のシステムエンジニアを目指して上京しておりましたが、会社の世代交代もあり、両親とも相談し家業に入らせて頂きました。

入社後3年間の勤め先は、現グループ会社の()大栄商会でした。祖父が創業し、主に漁船の売買や漁労機器、船舶塗料等の手配や斡旋を行なう会社でした。日本一の水揚げを誇る焼津なので漁船の数も多く、中古船の売却や新船導入のご相談、エンジンメンテナンス等の引き合いが多く、私もその仕事を手伝っておりました。

その後28歳で、今度は焼津冷蔵で魚の製品づくりに携わることになり、現在に至ります。

【原田】

網元の会社でもあった焼津冷蔵さんが、鯖や鰻の加工製造販売業を主力事業としたのは何故なのでしょうか?

 

【原崎】

家業は元々、まぐろはえ縄船、かつお一本釣り船、そして鯖・さんま棒受網船の3隻体制でした。冷蔵庫は主に自社船や仲間の船が水揚げしたまぐろやかつおを保管する為のものでした。

ところが水揚げ量により大きく業績が左右される冷蔵保管業は安定せず、冷蔵庫の一部を加工場に改築し、鯖船運営の知見も活かせることから、東京、大阪、京都へ塩鯖や鯖加工品の出荷をはじめました。

さて、当時は水揚げされた食用に適さない小型魚や雑魚は、お金を支払い廃棄処理されていました。ある日、祖父が魚市場で処分されるはずの「雑魚」が入札されていると報告され、驚いたそうです。時は昭和3040年代。浜名湖では鰻の養殖が商業軌道に乗りはじめており、その餌に雑魚が重宝されていました。そこでうちも、鰻の養殖事業を立ち上げました。

当時の鰻販売は生きた鰻、「活鰻」が主体でした。生きた鰻をトラックで東京の市場まで運びますが、鰻は生きている状態で価値があり、死んでしまうと価値が無くなります。売れ行きは天候や市況で変わりますから、これまた中々安定した販売が出来ませんでした。そんな中、当時は流行の最先端であったスーパーマーケットのバイヤー様から「これから電子レンジは爆発的に普及する。お客様は家庭で焼くのではなく、焼いてパックした商品を電子レンジで温めて食べるようになる」という言葉に、蒲焼製品の開発、製造販売を開始しました。

その後、資源の減少で鰻の価格が高騰し、普段の食卓から少しずつ鰻は姿を消してしまいました。

【原田】

それで穴子の蒲焼を始めたのですね。

 

【原崎】

原料として試したのは、石巻を中心に北部太平洋で真鱈やスケソウダラの雑物として獲れる洞穴子(イラコ穴子)でした。脂があって白身、味も美味しい、しかし小骨がとても多くてあまり食用にはされていませんでした。

これは勿体ないなと。魚価も当初は非常に安いのも魅力でした(笑)システムエンジニア崩れがあれやこれやとテストを繰り返し、約一年を開発に費やし製品が完成しました。

日本で唯一、小骨がまったく気にならない弊社だけの製造方法を確立し、今に至っております。鰻の不漁を背景に、他社様も続々と参入されましたが、骨の下処理方法で苦労されたのか、現在の取り扱いメーカーさんは少ないです。

おかげさまで、今では弊社の主力商品の1つです。

 

【原田】

その時々で、色々な事業を手掛けていらっしゃるのですね。

 

【原崎】

本来基幹となる商品は、会社にとっての顔であるべきで、弊社であれば「塩鯖」が創業以来製造する手作りの商品です。もちろん今でも伝統を受け継ぎ、今に至ります。

しかし同時に、例えば「もったいない」「おいしくない」といった「仲間が困っている課題をなんとかしたい」という気持ちも強く持っています。それと「ちょっとやってみるか!」というチャレンジ精神、これは祖父や父の代から引き継ぐ、性格なのでしょうね(笑)

それを解決してあげれば三方よしだろ?って(笑)

 

【原田】

今後の目標を教えてください!

 

【原崎】

小川地区は、残念ながら年々漁業者や船数が減り、水揚げの減少と共に加工会社も減ってきています。携わる人が減る分、残った皆で「魚のまち」というブランド力を必死に支えていると思います。

 

産業発展や雇用に限らず、人が集う場所を作ることに少しでもお役立ちができればと思っています。ここで生まれて、迷惑をかけて、育ててもらって今に至ります。地域貢献と言ったらとても偉そうですが、次の世代に何か少しでも残してあげられたらって、焼津の元網元としては、そんな気持ちで日々製品づくりに励んでおります。