
カツオは、古代は堅魚と書かれることが多く、魚編の横に堅と書く「鰹」になったのは江戸時代になってからと言われています。(鎌倉時代という説もあります。) それまでは当て字を使うことも多かったため鰹だけでも沢山の書き方がありました。和製の漢字だけでも堅魚以外に加豆乎、勝魚、松魚など沢山あったのを国字※1として「鰹」に統一したというわけです。平安時代中期(931~938年)に編纂された『和名類聚抄』に「鰹」は出てきますがこれは大鮦也といって大うなぎを指していて、偶然一致したのだろうといわれています。
この堅魚という文字は、古事記の下巻 第21代雄略天王が河内に行った時の出来事に登場します。
(原文)
初大后坐日下之時 自日下之直越道幸行河内 爾登山上望國內者 有上堅魚作舍屋之家 天皇令問其家云 其上堅魚作舍者誰家 答白 志幾之大縣主家 爾天皇詔者 奴乎 己家似天皇之御舍而造 卽遣人令燒其家之時其大縣主懼畏 稽首白 奴有者 隨奴不覺而過作甚畏 故獻能美之御幣物[能美二字以音] 布縶白犬著鈴而 己族名謂腰佩人令取犬繩以獻上
要約すると次のような内容です。
「雄略天王が大后(ワカクサカベ)に会うため、直越の道を通って河内にお出かけになったときのこと。山の上から国を見渡すと、屋根の上に堅魚木(かつおぎ)を上げている家がありました。天皇が、「あの堅魚木を上げている家は誰のものだ。」と訊いたところ、「志機の大県主※2(オホアガタヌシ)の家にございます。」という答えでした。すると雄略天皇は「こ奴め、自分の家を天皇の御殿に似せて造りおった。」と言い、直ぐに人を遣わせてその家を焼き払わせようとしました。
大県主は畏れおののき、ひれ伏して「私は不覚なことだったとはいえ大変な過ちを犯してしまいました。これは本当に畏れ多いことです。ついてはお詫びの品を献上いたします。」と言って、白犬に布をかけて鈴を付け、腰佩(こしはき)という名の者に犬の縄を引かせて献上した。」
このあと、雄略天皇が志機の大県主の屋敷に火を放つのを止め、貰った白犬を大后の所に珍しいお土産として持っていったと続きます。)
ここで注目したいのが、堅魚木です。堅魚木と書いて当時から「かつおぎ」と呼んでいて、現代でも神社の屋根に見ることができます。
これは古代の神話に基づいて想定された天地根元宮造(てんちこんげんのみやづくり)と呼ばれる日本で最も原始的な建築様式です。垂木を伸ばして屋根の棟で交差させ屋根より高く突き出た部分を千木(ちぎ)呼び、屋根にふいた茅が風雨で飛ばされないように抑えるための補強材を鰹木と呼びました。現代は、神社の屋根でしか見ることのない千木と鰹木ですが、古くは上流階級の家にも用いられた技術と考えられています。
ここで湧いてくる疑問、それは「何故、屋根の補強材(重し)につかった木を堅魚木と名付けたのか。」ということです。これにも色々な説があるようです。
1、古代、獲ったカツオを干すために屋根に乗せたのではという説。
2、租庸調として指定されていた堅魚は高級品であり、富の象徴でもあったという説。
3、紡錘形をしているカツオと似たような形をした丸太を使ったからという説。 など
何れにしても古事記に雄略天皇が堅魚木を上げた志機の大県主に対し、焼き討ちを命じようとするほど大事な堅魚木は、権力の象徴であったことは間違いなさそうです。
※1 漢字の要素や作り方を真似して作った和製漢字のこと。
※2 志機の大県主 とは、河内国志紀郡の豪族









