古代かつぶしプロジェクト

「古代駿河・伊豆国のかつお製品」講演会 ~和食展~
2025年12月6日、清水マリンビル6階で「古代駿河・伊豆国のかつお製品」という講演会を開催します。
先日、テレビで特集された煮堅魚や堅魚煎汁のことを更に詳しく解説。
煮堅魚を作る時に使ったとされている 堝形土器のレプリカや壺gのレプリカを見たり、再現した煮堅魚を試食したりと、充実した内容が盛りだくさん!!
参加費は無料です!!
事前申し込みを是非よろしくお願いします。

カツオという不思議で特別な魚 ~ 古事記編 ~
カツオは、古代は堅魚と書かれることが多く、魚編の横に堅と書く「鰹」になったのは江戸時代になってからと言われています。(鎌倉時代という説もあります。) それまでは当て字を使うことも多かったため鰹だけでも沢山の書き方がありました。和製の漢字だけでも堅魚以外に加豆乎、勝魚、松魚など沢山あったのを国字※1として「鰹」に統一したというわけです。平安時代中期(931~938年)に編纂された『和名類聚抄...

大宝律令で制定された租庸調とその中身
唐で624年に制定された武徳律令にならい、大和朝廷が大宝元年(701年)に制定した大宝律令の中に、日本最古の租税制度として定められた賦役令(ぶやくりょう)があります。
それによると税は、租、庸、調の三種類に分けられ規定されていました。
祖は、支給された田んぼ(口分田)によって一定量の米を国衙に納める税。庸は、成年男子が一定期間都で労役を果たすか、その代わりとして布や米などを都に納める税。
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益頭郡と志太郡の密接な関係を示すもの
4・5世紀になると、畿内の大和政権を中心に国づくりが進み、市内でも4世紀の終わり頃に、時ヶ谷五鬼免1号墳などの古墳がつくられました。 6世紀には、瀬戸や原などの丘陵に古墳群がつくられ、その数は約1000基にものぼります。
そして奈良・平安時代になると、志太平野に益頭郡と志太郡がおかれました。志太の浦の東側を益頭郡として11郷※1あり、西側の志太郡には8郷あったことが知られています。これらの...

古代の志太平野の地形と暮らし
駿河国に属する志太郡には、志太の浦と呼ばれた大きな入り江がありました。万葉集にも志太の浦を話題にした歌が詠まれています。斯太能宇良乎阿佐許求布祢波与志奈之尒許求良米可母与余志許佐流良米(斯太の浦の朝漕ぐ船はよしなしに漕ぐらめかもよよしこさるらめ)作者未詳 志太の浦を朝漕ぐ船はわけもなく漕いでいるのではないだろう。きっと理由があるに違いない。
舟を漕いで朝帰りする男をからかう歌とされ、漁師で...

焼遺から益頭、
益津、焼津に
地名が変化した理由
奈良時代に編まれた記紀に日本武尊によって焼遺と名付けられたという由緒のある地域は現在の焼津市よりも広く、旧行政区の益津郡の大部分を指していたと考えられています。これには焼遺が益頭に変化し、益津が焼津に変化していったからではないかと思われます。
その理由は下のとおりです。
大宝元年(701年)に大宝律令が制定されたことで政治のしくみが整えられていきました。全国は畿内(きない※1)と七道(しち...

古代の人々が口にした調味料とは
日本が縄文時代だった約3000年前、アジアの中で最も文化的に進んでいたのは中国の周王朝でした。王朝を記録した最古の礼書「周礼(しゅらい)」には「膳夫掌王之食飲膳羞,以養王及后世子。凡王之饋食用二 六穀一、膳用二 六性一、飲用二 六淸一、羞用二百二十品一、珍用二八物一。醤用百有二十甕。」と記されました。膳夫とは古代の宮中で食事の準備をつかさどった料理人を指し、醤用百有二十甕とは120種類の...

古代の漁業と
加工技術・保存方法
古代の漁業
約1万5000年前の縄文時代、地球規模で急激な温暖化が進み、太平洋では黒潮が北上し始めました。さらに8000年前になると温暖化による海水面が上昇する「縄文海進」が進みます。海に面した低地は内湾化し、それによって汽水域ができ、様々な貝類が採れるようになりました。河川による川床の浸食や洪水による土砂の堆積になどよって、入り江には内湾に生息する魚だけでなく外洋性の魚も回遊するようにな...

古代人の生活と進化
日本では旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代のことを原始と呼んでいます。ウルム亜氷期Ⅱの寒冷期が終わりをつげ、その後、温暖化によって海水面が上昇していき約6000年前には現在とほぼ同じような高さになりました。 その結果、旧石器時代や縄文時代の前期まで陸地だった場所が水没し、古志太湾と呼ばれる入り江になったと考えられています。その後も大規模な治水工事ができなかったため河川の流路が定まらず...

古代の漁業について
縄文時代、矢じりに加工された黒曜石は、神津島や長野県中部、山梨県など限られた産地で採取され、遠くはなれた場所に運ばれました。このことから縄文人は広範囲わたる移動や交易をしていたと考えられています。
交易によってモノや技術、文化などが伝わり、各地で石斧・石鏃・丸太弓・角製の釣針など、石や木や獣骨を材料とする道具も使われるようになりました。その後、農耕がはじまり食糧を安定して手に入れられるよう...

ヤマトタケルと焼津
焼津という地名は、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂した古事記の景行段にヤマトタケルの火難伝承として書かれています。これによると『ヤマトタケルが相武国(さがむのくに)※1にやってきた時、ここを治めている国造がヤマトタケルを騙そうと「この野の中には大きな沼があって、沼の中には大変荒々しい神が住んでいます。」と伝えた。ヤマトタケルがその神を見ようと野の中に入っていくと国造は野に火を放ち、ヤマ...

太古から大きく変化してきた志太平野
焼津市は静岡県中部に位置する志太平野にあり、藤枝市と隣接しています。この志太平野は数万年前まで大部分が海だったようで、2500万年前の新生代新第三紀中新統ころから、糸魚川~静岡構造線と呼ばれる断層に沿って海底でアルカリ岩礁が噴出し、直後に急冷したため、大崩海岸に見られる溶岩は枕状構造になっています。
これらの岩石は約500万年前に海底から隆起しはじめ、竜爪山(りゅうそうざん)や真富士山(ま...

