
日本が縄文時代だった約3000年前、アジアの中で最も文化的に進んでいたのは中国の周王朝でした。王朝を記録した最古の礼書「周礼(しゅらい)」には「膳夫掌王之食飲膳羞,以養王及后世子。凡王之饋食用二 六穀一、膳用二 六性一、飲用二 六淸一、羞用二百二十品一、珍用二八物一。醤用百有二十甕。」と記されました。膳夫とは古代の宮中で食事の準備をつかさどった料理人を指し、醤用百有二十甕とは120種類の醤を用いるという意味です。当時の醤は肉や魚を原料としたものが中心でした。
その後、日本にも食糧を保存するための塩漬け、乾燥、発酵といった技術が伝わり、弥生時代には野菜や果物、海藻などを使った草醤、魚や肉を原料にした魚醤(うおびしお)や肉醤(ししびしお)、穀物から作る穀醤といった発酵塩蔵物が造られていたと考えられています。
その後、飛鳥時代後期に朝廷が唐朝に遣唐使を派遣。様々な制度や文物、技術や芸術、衣食住に関する新しい文化を持ち帰ります。その中に、豆を原料とする穀醤が含まれており、唐醤(からびしお)として伝えられ、藤原京の時代から朝廷の食膳を司る大膳職に属する醤院(ひしおつかさ)という施設で醤や味噌などの調味料を専門につくる役人が居たようです。
この時代、貴族たちは食材を煮たり焼いたり和えたりした皿とともに四種器(よもぐさ)とよばれる小さな器に入れられた塩・酢・酒・醤など4種類の調味料が供され、各々が好みの味付けをして食べていました。(特に梅酢は重宝されたそうで、そこから塩梅という言葉が生まれたそうです。)
醤には様々な種類があったようですが、中でも超高級とされたのが堅魚煎汁(かたうおいろり)という調味料でした。これは、かつおを煮たときにできる煮汁をつかってつくられたものとされていますが、詳しいことはまだわかっていません。
大宝律令、賦役令により堅魚、煮堅魚、堅魚煎汁が駿河国や伊豆国(現在の静岡県)の調(みつぎ)として指定され、貴族の中でも特に身分の高い人しか口にできない重要貢納品として作られました。









