
駿河国に属する志太郡には、志太の浦と呼ばれた大きな入り江がありました。万葉集にも志太の浦を話題にした歌が詠まれています。
斯太能宇良乎阿佐許求布祢波与志奈之尒許求良米可母与余志許佐流良米(斯太の浦の朝漕ぐ船はよしなしに漕ぐらめかもよよしこさるらめ)作者未詳
志太の浦を朝漕ぐ船はわけもなく漕いでいるのではないだろう。きっと理由があるに違いない。
舟を漕いで朝帰りする男をからかう歌とされ、漁師ではないかという説があるそうです。女性の家に長居していると魚が逃げてしまうから、急いで舟を漕いでいったのではというわけです。
万葉集に斯太と書かれていた志太。斯は農具の箕(み)象形と曲がった柄の先に刃をつけた手斧の象形を組み合わせた文字、志は草木が伸びてゆく姿をかたどった象形文字の「之(し)、これという文字」の古形と、心臓を示す象形文字の「心」を組み合わせてできた文字です。
また太は、泰という字が元になっていて「たくさんの水」という意味をもち、豊かさや満ち足りている、おおらかと言う意味合いもあります。
昔の人々は、当て字をつかうことが多かったため、何が本当なのかということは分かりません。
しかし、旧石器時代から人が住み始め、縄文時代になると天ヶ谷遺跡のように海の幸、山の幸に恵まれた瀬戸川や大井川に面した丘陵に人々が移り住みました。志太地域は豊かな場所だったため、4世紀の終わり頃には時ヶ谷五鬼免1号墳(ときがやごきめん)などの古墳がつくられ、 6世紀になると瀬戸や原などの丘陵に約1000基にのぼる古墳群がつくられたということは間違いないと考えられます。
大和朝廷によって進められた国づくりの中で、志太平野に益頭郡衙が置かれた後、瀬戸川の対岸に志太郡衙が作られるという特殊な状況が生まれたのにも何かわけがあるのかもしれません。(益頭郡衙推定値と志太郡衙跡は直線距離で2㎞ほどしか離れていません。)









