ヤマトタケルと焼津

ヤマトタケルと焼津

焼津という地名は、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂した古事記の景行段にヤマトタケルの火難伝承として書かれています。これによると『ヤマトタケルが相武国(さがむのくに)1にやってきた時、ここを治めている国造がヤマトタケルを騙そうと「この野の中には大きな沼があって、沼の中には大変荒々しい神が住んでいます。」と伝えた。ヤマトタケルがその神を見ようと野の中に入っていくと国造は野に火を放ち、ヤマトタケルを焼き殺そうとした。騙されたことに気づいたヤマトタケルは(伊勢神宮に立ち寄った時、叔母のヤマトヒメから「危険な目にあったらこの袋の口を開きなさい」と手渡された※1)袋を開いた。そこには火打石が入っていたので、(ヤマトヒメから授かった※2)刀で周囲の草を刈り払い、火打ち石で火を点けて向い火にし、野火が迫ってくるのを止めた。無事に野から戻ったヤマトタケルは国造らをすべて焼き滅ぼした。このような出来事があったので、この地を焼遺(焼津)というのだという。』とあります。

一方、元正天皇の養老4年(720)に完成したとされるわが国最初の勅撰国史(天皇の命で編修された国の歴史)である日本書紀では、『ヤマトタケルが駿河国に入った時、賊が偽って服従の意を示した。賊はヤマトタケルを騙して「この地の野には大鹿が多く住んでいる。吐く息は朝霧のようで、足は茂った林のようである。出かけて狩りをしてはいかがでしょう」と誘った。ヤマトタケルは言葉を信じ、野の中に入って狩りをしはじめた。賊はもともとヤマトタケルを殺そうという気持ちがあり、火を放って野を焼いた。ヤマトタケルは騙されたことに気づき、火打ち石を使って火をおこし、向焼をつけたので難を逃れることができた。それで、この剣の名を草薙と云うようになった。ヤマトタケルは「もう少しで騙されるところだった」と言い、賊たちを残らず焼き殺し滅ぼした。このことがあって、この地を焼津というようになったという。』とあります。

古事記には相模国とされていたものが、日本書紀には駿河国になっていて色々な説が唱えられていますが、焼津という地名の由来が「焼津一帯が天然ガスの埋蔵地であり、その噴出により海辺で火が燃えていた様子から、焼津の地名が付けられたともいわれていることから、現在の焼津を指している伝承であることは間違いなさそうです。
1 焼津という地名を名付けた場所が相武国(相模)だったというと違和感を抱く人が多いはず。上古では都から遠く離れた東国を漠然と「相武(さがむ)」と総称していて、時代が進むにつれて相模、武蔵、駿河になったという説があります。
2、※3 本文中にはありませんが、前段に書かれていることなので加えました。 


出典 焼津市史 上巻(1971111)、古事記 池沢夏樹(2023)