
奈良時代に編まれた記紀に日本武尊によって焼遺と名付けられたという由緒のある地域は現在の焼津市よりも広く、旧行政区の益津郡の大部分を指していたと考えられています。
これには焼遺が益頭に変化し、益津が焼津に変化していったからではないかと思われます。
その理由は下のとおりです。
大宝元年(701年)に大宝律令が制定されたことで政治のしくみが整えられていきました。全国は畿内(きない※1)と七道(しちどう※2)に分けられ、それぞれの下に国・郡・里(※3)が置かれました。
現在の静岡県には、遠江・駿河・伊豆の三国があり、駿河国には志太、益頭(ヤキツ)、有度(ウト)、安倍(アヘ)、廬原(イホハラ)、富士、駿河の七郡がありました。承平年間(931~938年)に成立した和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)によると、駿河国にある七郡は更に五十九郷に分けられていました。
益頭郡は呉音では「ヤキツ」と読みます。
記紀に出てくる焼遺は、日本武尊が敵に火で襲われた時に火打石と草薙剣を使って向火をつけ、敵を焼き殺したことに由来するので「焼」という漢字が使われましたが、「焼」という文字は縁起が悪いとその後、同じ読み方で吉字が宛てられて益頭とされたという説があります。
さらに、天保十二年(1841年)に出された駿国雑誌には、「昔は益頭を“やくつ”と呼んだが、その後“ましづ”と読まれるようになった」とあり、益頭郡の中に焼津郷がありました。益頭の「頭」は地名としては意味を持たないので、湊を意味する「津」に変化し、益津郡になったようです。
その後、明治22年(1889年)に公布された村制施行によって益津郡焼津村が発足、昭和26年(1951年)に公布された市制施行によって焼津市になったのです。
※1 畿内 ・・・ 政治や文化の中心だった大和、山城、摂津、河内、和泉の五カ国を指す。
※2 七道 ・・・ 畿内以外の全国を区分した東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海同、西海道の七つの地域を指す。
※3 里 ・・・ 地方行政区分の最小単位で一里を50戸として構成し、715年に郷と改称された。
参考文献:焼津市史上巻 昭和46年11月1日、静岡県史 通史編1 原始・古代 第2片第3章第一節 他









