
4・5世紀になると、畿内の大和政権を中心に国づくりが進み、市内でも4世紀の終わり頃に、時ヶ谷五鬼免1号墳などの古墳がつくられました。 6世紀には、瀬戸や原などの丘陵に古墳群がつくられ、その数は約1000基にものぼります。
そして奈良・平安時代になると、志太平野に益頭郡と志太郡がおかれました。志太の浦の東側を益頭郡として11郷※1あり、西側の志太郡には8郷あったことが知られています。これらの郡衙はともに藤枝市内におかれ、志太平野の政治・経済・文化の中心となっていったのです。
志太郡衙跡は御子ヶ谷と呼ばれていた谷あいから発見された役所跡です。ここから出土した食器類の中に志太という地名や奈良時代の郡役人の官職名や役所の施設名を墨で書いたものが発見されたことで、当時からこの地域を志太※2と呼んでいたことや役割などがはっきり分かりました。
もともと志太平野にあった益頭郡を志太郡と分けたのは何か理由がありそうです。入り江に面しているものの、海藻類などは獲れない志太郡から調としてフノリが貢進されていたことが分かっています。フノリは益頭郡の東側にある大崩海岸という岩場で採れる海藻です。志太郡から貢進する調が地元で採れず、隣の益頭郡から分けて貰わなければならないということは喧嘩できない間柄でなければなりません。
逆に、益頭郡から貢進された調のなかに堅魚煎汁(カツオイロリ)という鰹の煮汁があり、それを入れたとされている壺Gという須恵器は藤枝市から焼津市に流れる瀬戸川の流域にある助宗窯という大規模な窯で作られていました。壺Gは志太郡衙や益頭郡内に位置する大覚寺遺跡などから出土していることからも益頭郡と志太郡は密接な関係にあったと考えられています。
※1 律令礼における奈良・平安時代の行政区画は、国・郡・郷(霊亀元年(715年)までは里)からなっていて、このうち郷は50戸で構成すると決められていました。戸という単位は戸主とその下に編成された戸口と呼ばれる人々で構成されており、一戸は約20~30人でした。したがって一郷の人口は1,000~1,500人程度と考えられています。
※2 古代国家の基礎が整えられていったこの時代、駿河国志太郡に郡衙が設置された後、常盤国に移民した人々が常盤国志太郡をつくり、更に北上した集団が現在の宮城県に志田郡志太郷と玉造郡志太郷を作ったという説があります。宮城県にある加美郡城生遺跡からは物部国と書かれた須恵器が出土するなど、北上川水系の江合川や鳴瀬川の流域には物部氏の足跡を確認できることが根拠とされています。(谷川健一「白鳥伝説」)









