古代の漁業について

古代の漁業について

縄文時代、矢じりに加工された黒曜石は、神津島や長野県中部、山梨県など限られた産地で採取され、遠くはなれた場所に運ばれました。このことから縄文人は広範囲わたる移動や交易をしていたと考えられています。

交易によってモノや技術、文化などが伝わり、各地で石斧・石鏃・丸太弓・角製の釣針など、石や木や獣骨を材料とする道具も使われるようになりました。その後、農耕がはじまり食糧を安定して手に入れられるようになったことで人々は定住するようになり、これが富の差を生んで身分の差になっていきました。

焼津神社周辺の宮の腰遺跡は、古墳時代の遺跡でその住居跡と遺物から見て相当広大な遺跡とみなされています。出土遺物には須恵器・土師器の土器類や、祭祀関係と思われる剣・鏡・曲玉の土勢模造品があり、この付近一帯にはすでに相当数の集落があって、ここで大規模な祭事をおこなっていたものと考えられています。このほか建物用と思われる柱や砥石の類のものなどが出土しましたが、特に興味深いのは米などの食糧類に混じって魚の骨片が発見されたことです。
この魚の骨片は地表下150㎝位のところに大きな瓶がつぶれており、そこにあった炭・灰米・たね類と一緒に混じっていたそうです。そして鑑定の結果、この骨片は カツオの脊椎骨1 尾椎骨1、鳥喙骨1、イシダイ科 脊椎骨1 であることが判明しました。
 これが、かつおの骨であるという鑑定によって、今から1,400年余もまえに、宮の腰の一帯の集落の人びとがかつおを獲っていたことをハッキリと証明することができたのです。
 また高草山西麓の坂本、朝比奈川と瀬戸川の合流する付近の中里・落合、市立西小学校およびその一帯、宮の腰、熊野神社付近の各遺跡からは、古代に用いられた盤・瓶・坏・堝・はさうなど多数の遺物が発見され、その年代は大体67世紀くらいの間のものであろうと云われている。

当時は、瀬戸川河口も現在よりも広く、河口から約1.5㎞上流の瀬戸川・朝比奈川合流点付近では、川床下約20mに海砂層が見られ、ここからは海棲の貝が掘り出されています。このことからも大昔にはこのあたりまで入海を形成していたことがうかがい知れます。この合流点付近の河川堤防敷に発見された中里遺跡からは、井戸枠や須恵器・土師器などとともに当時、網漁具の沈子に用いられた土錘が多数出土しています。 (焼津漁業史 昭和39)