古代の漁業
約1万5000年前の縄文時代、地球規模で急激な温暖化が進み、太平洋では黒潮が北上し始めました。さらに8000年前になると温暖化による海水面が上昇する「縄文海進」が進みます。海に面した低地は内湾化し、それによって汽水域ができ、様々な貝類が採れるようになりました。河川による川床の浸食や洪水による土砂の堆積になどよって、入り江には内湾に生息する魚だけでなく外洋性の魚も回遊するようになった地域には人が住み、集落を形成していきました。人々が貝類を食べたあと捨てた場所が貝塚として見つかると、貝塚からは魚類の骨も見つかることがあります。(貝殻と一緒に埋まっていると、貝殻に含まれるカルシウムの影響を受けて魚骨が残りやすくなります。日本は全国的に酸性土壌が多く、魚類の骨は長期間土中に埋まっているうちに消滅してしまうといわれています。)
縄文時代の遺跡からかつおの骨が多く出土したのは青森県にある帽子屋敷貝塚です。同じ青森県にある長七谷地遺跡や赤御堂遺跡では貝や魚骨とともに釣針や銛、石錘などの漁撈具も出土していて、舟で魚を獲りにいったこともあったと想像できます。現在の海岸線から内陸方面に17㎞は行った畑内遺跡からもかつおやまぐろの骨が出土していることは、海辺の集落と山野辺の集落が交流していたことを裏付けています。
かつおの加工と保存
縄文時代の人びとは火を使い土器も作っていたので獲ったかつおも生食したり、焼いたり、煮たりして食べていたと考えられます。食糧が手に入った時は好きなようにして食べれば良いのですが、毎日の食べるものをどうやって確保するかということは大きな問題です。製塩技術が発展したために狩りで獲ってきた動物や魚は塩漬けにしたり、素干しにしたりして保存性の高い食べ物に加工するようになりました。かつおの場合は、細切り楚割※にしてから素干しする堅魚、麁堅魚といった保存食が東北地方から九州まで広い地域で作られていました。
一方、駿河国・伊豆国(現在の静岡県)の人びとは、かつおを煮てから干すという技術を持っていて、煮堅魚という保存食を作っていました。また、かつおを煮た時にできる煮汁を煮詰めた堅魚煎汁という調味料を作り、非常に高価な調として貢進していました。これは、平城京などから出土する木簡に書かれていて、鰹節の元祖ともいえる煮堅魚や堅魚煎汁は駿河国独自の物として祭事などにも使われたようです。
※ 楚割(すわやり)・・・生魚を縦方向に細く何条にも切って、そのまま干し上げる加工方法のこと。









