日本人と歩んできたかつお文化
かつおと日本人の付き合いは古い。日本の歴史と共に歩んできたと言っても過言ではない。縄文時代の人々はすでにかつおを手に入れていたことは、約5500年前の三内丸山遺跡(青森県)の遺跡からはかつおの骨が出土していることが証明している。丸木舟に乗り、鹿の骨や角で作ったヤスや釣り針などで漁をしていたのだろう。
さらに言えば、約2万3千年前(後期旧石器時代)の釣り針がサキタリ洞遺跡(沖縄県南城市)から出土しているから、太古の人々が回遊するかつおを食べていたことは想像に難くない。焼津にも縄文時代から人が住んでいた形跡があり、焼津神社周辺の宮の腰遺跡(古墳時代)からはかつおの骨が発見されている。
ただ、比較的大きな魚の部類に入るかつおを手に入れるのは現代の技術をもってしても容易ではない。当時の骨製の針や大麻糸などの釣り具でかつおを釣るのは高い技術が必要だったはずだ。せっかく手に入れた貴重なかつおを無駄にすることはできない。
縄文時代の遺跡からは食物を大切に調理、保管していた道具や土器が発見されている。人は食物を保存することで、安定的に食物を確保し共同体を維持してきた。保存食は命の次ぎに大切な物だったに違いない。
腐らさずに肉や魚を保存するもっともシンプルな方法は、現在でも世界中で行われている水分を飛ばすという方法だ。大昔の人類も経験から学び、魚を乾燥させたり、焙ったりすることで乾燥度を高めたことだろう。
時代が進み塩漬けや燻乾することでさらに長く保存し、あるいは味に変化をもたらせた。なかでもかつおのユニークな点は鮮魚の状態だけではなく、煮魚、煮汁、干し魚、粉末など様々な状態で「おいしさ」を感じられる点だ。乾燥したかつおから出汁さえ取れば、どこでも味を「再現」することができる。
延長5年(927年)、『延喜式』(平安時代中期に編纂された法典)に、駿河国焼津浦よりかつおの貢ぎ物があったと記述されている。
記録には、堅魚(かたうお)、煮堅魚(にかたうお)、堅魚煎汁(かたうおいろり)とあるので、干したり煮た後に日干ししたかつおが朝廷に献上されたと考えられる。おそらく、今のかつお節のルーツのようなものが貢ぎ物として重用されたのだろう。
かつお節が通ってきた道
基本的なかつお節の燻製法は400年以上前に考案された。キーパーソンとなるふたりの漁師が技術を高め、発展させた。基本的に当時のかつお節の製法は変わらない。
・生切り かつおを切り、節となるサイズにする。
・煮熟(しゃじゅく) ボイルする。
・骨抜き、修繕 煮熱した身から手で骨を抜き、欠損部や亀裂をすり身で埋める「もみ付け」を施す。
・焙乾(ばいかん) 燻製にする。セイロ網に並べ、水蒸気で蒸煮殺菌をした後に薪で燻す。焼津式乾燥機で1番火、2番火、3番火と焙乾を繰り返し、火入れを15~16回行う。
・かび付け 表面を削り外形を整えた節を木箱に詰め、摂氏25~28度、湿度75~85%の室に入れると2週間ほどで青緑色の一番カビが生えてくる(現在では、純粋培養した優良カビ菌を噴霧して移植発生させる)。最初のカビ付から7~8週間で本枯節が完成する。
かつお節の基礎を考案したのが紀州(和歌山県)出身の漁師・二代目甚太郎。土佐国(高知県)の宇佐浦(土佐市)で始めたと考えられている。
その100年後、土佐の与市という鰹節職人が燻製法を改良し、現在とほぼ同じ土佐節を完成させた。当時は秘伝だった土佐節の燻製方法を、与市は伊豆の安良里浦に伝えた。
伊豆では土佐節の方法を見習い、かびつけに改良を加え、脂肪や水分を伏しの中から抜く製法を編み出した。これが伊豆節として発展し、焼津に伝わり、焙乾と3~6回のカビ付けを行った「本枯節」である焼津節が誕生した。
やがて、焼津節は品評会や博覧会で最高位に評価されるようになった。
品質が全国に知れ渡ると、焼津のかつお節職人の技術と合理的な燻製法を学びたいと、各地に指導者として招かれるようになった。
特に太平洋戦争後、大型船が導入されかつお漁が復興してくると、かつお節の生産需要が増え、焼津のかつお節職人の技術は全国に広まっていった。
今では焼津節は全国で標準的な鰹節として定着している。