焼津という街

焼津という街

焼津は観光の町ではない。もちろん、訪れた人を満足させる最高レベル海の幸を味わうことができるし、長い歴史を有する神社仏閣はある。「観光目的」で訪れた人も満足するはずだ。

焼津は観光の町ではない。もちろん、訪れた人を満足させる最高レベル海の幸を味わうことができるし、長い歴史を有する神社仏閣はある。「観光目的」で訪れた人も満足するはずだ。しかし、焼津はかつお・マグロを主とする遠洋漁業の基地、水産業の町として発展してきた。観光面よりも、この水産業を中核とした焼津の姿がとても魅力的だ。

水産業のまん真ん中にある焼津

 町は水産業と共に拡大してきた。現在、焼津漁港の水揚金額は7年連続で全国第1位を誇っている。日本一の港町になった要因の一つが交通の便だろう。

焼津市は京浜・中京のほぼ中間。JR東海道本線に焼津と西焼津の2駅、東名高速道路には焼津ICと大井川焼津藤枝スマートICがある。

焼津港近くには冷蔵施設や加工場が多いため、港はたくさんの魚を受け入れることができる。焼津からは様々な交通手段を使って大都市に向かって魚は運ばれていく。

太古の人たちも焼津の海の恩恵を受けた

焼津は年間を通して温暖で、冬季の降雪もまれな気候。それに加えて山や海が近く、豊かなこの土地は古代から人々にとって住み良い場所だったようだ。

縄文時代から人が住んでいた形跡があり(おそらくもっと以前からだろう)、焼津神社周辺の宮の腰遺跡(古墳時代)からは土器、剣、鏡などが出土している。

私たちに身近な生活の痕跡も残っている。米などの食糧品に混ざり、かつおの骨が発見されているのだ。昔の人々も舟をこぎ出し、黒潮に乗ってやって来たかつおに舌鼓を打ったのだろうか。

焼津の地名は神話に由来する。古事記や日本書紀に登場する日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の途中、機転を利かせて剣で草をなぎ払い、火をかけて賊を滅ぼしたという話を聞いたことがある人も多いだろう。この状態を表す「焼」の文字に船の着く場所意味する「津」が付き焼津(ヤキツ、ヤイズ)となったと考えられている。

万葉集にも焼津の名が登場する。

焼津辺にわが行きしかば駿河なる阿倍の市道に逢ひし児らはも

(私が焼津のあたりに行ったとき、駿河の阿倍の市で逢った娘よ)

と、僧・貴族の春日蔵首老が詠んでおり、奈良時代には広く焼津と呼ばれたことがわかっている。また、平城京出土の木簡には都にかつおの加工品(干した物や煮詰めた物など)が焼津から献進されていたことが記されている。

ただ、当時の焼津は砂利浜が広がるだけで、船を接岸する入り江もなく、河口に船溜まりがある程度だった。周辺は耕作地が少ないため、人々は豊かな海に活路を求めた。

沖合での釣り漁・網漁のほか、砂利浜での地引き網や手操網、製塩など多様な漁業が営まれ、徐々に港町として形成されていく。

江戸時代に入ると、新田開発も進んで農業も盛んになり、河口港を利用した廻船(海上を貨物や乗客を運送してまわる船)業が発達する。

拡大していく焼津

 

1889年(明治22年)に開設した焼津駅が焼津を大きく変える。それまでの輸送は海路が中心だったが、東海道本線を利用することで輸送範囲が拡大されたのだ。

さらに1908年(明治41年)には石油発動機付きの漁船が出現し、はるか八丈島まで漁に出ることができるようになった。焼津は当時の最新テクノロジーと共に拡大・発展し続けていく。

第二次世界大戦前には大型漁船の操業が増え、遠くミッドウェイ島近海や赤道付近へと漁場開拓する。焼津は遠洋漁業の根拠地と発展していった。しかし、戦争は焼津に大きな打撃を与えた。ほとんどの遠洋漁船が徴用され、船だけではなく船員の尊い命も失ってしまった。

戦後、日本国中が食糧不足に陥った。戦前に50隻弱あったかつおマグロ船は、終戦時には18隻にまで減っていたが、1950年頃には戦前の漁船勢力に復活していた。この頃、明治期から強く求められていた漁港整備も進められ、素掘りの港に大型鋼船が初入港した。港に直接大型船が入港できるということは、荷物を運ぶ伝馬船を使い行き来をしなくてもすむ。これは、燒津にとって大変画期的なことだった。

戦後復興の兆しが見え始めた1954年(昭和29年)、燒津の船を悲劇が襲う。太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によってマグロ船・第五福竜丸が被ばくしたのだった。平和の道を進み出した日本国民にとって大変ショッキングな出来事だった。

その後も、燒津の人々は多くの苦難を乗り越えて、漁業の発展に努力した。日本は高度経済成長期に入り、1969年(昭和44年)、には東名高速道路が開通。

冒頭で触れたように、これにより燒津の魚を容易に全国に届けることができ、燒津は全国屈指の漁業の町となっていった。現在、焼津港は水揚金額において全国第1位を誇る港となった。

焼津は世界の漁場と日本を結ぶハブ(Hub)の役割を担っている。

なにげなく焼津を歩くと「大きな港町」というような印象を受けるかもしれない。しかし、歴史と人が織りなす歩みを気にかけながら、焼津の町を見てみると、新しい気づきがあるだろう。焼津を歩き、美味しい海産物を食べ、地元の人と交流することで本来の焼津港の姿が見えてくるはずだ。

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